南草津歴史会で矢橋訪問 no2 鞭崎神社

そば打ちおじさん

2014年08月26日 23:58

この絵は鞭崎八幡宮のHPから借りました。



明治4年の絵ですから、城址の門はないみたいですね。そこさえ変わったら今の風景とそんなに変わりませんね。
宗源殿は昭和になってからできました。裏口に門があるみたいです。

前回のコメントで膳所城の門がどうして鞭崎八幡宮に来たのかと問い合わせがありました。今回 大神宮司は文章をまとめて私らにいただきました。やはり時代の大きな変動期に、当神社は登場とおしゃっています。ですから初めから歴史をたどっていきたいとおもっています。

1、天武天皇は壬申の乱の4年後、矢橋八幡宮を創建した。 676年

 「壬申の乱で近江は荒れたそうです。ですからお寺とかお宮さんをつくられたんです。
天武天皇の命により、中臣家の子孫、大中臣清麿が白鳳4年(676年)に建てられました。
天武天皇は20年毎の伊勢神宮式年遷宮の制を創設するなど、敬神の念が厚く、この地に矢橋八幡宮を創建させ、四町四方を社地とし、神主・紀是尚(きよしかみ)をして皇位の長からんことを願う宝祚(ほうそ)延長を祈願させた。」
鞭崎神社HPより

2、菅原道真は金勝寺参籠の帰路、矢橋八幡宮に参拝して歌を詠んだ。      895年

 菅原道真は、勅命により、今は栗東の金勝寺(こんしょうじ)に参り参籠したと伝えられる、金勝寺は良弁により平城京の鬼門鍞護のため開基された、この寺は延暦寺と比肩される大寺院であり、歴代の天皇家の帰依も厚く隆盛を極めた。南北朝の内乱期には、南北双方から戦勝祈願の祈祷を要請された事が知られている。天文18年(1549)火災で全山焼失し、住持賢法が徳川家康の援助により再興を図ったが旧観を取り戻すまでには至らなかった。この寺院で菅原道真が参籠したことは寺伝に記されているとのことである。


「菅原道真公が金勝山に勅使として立ち寄られた帰途、当社を参拝し、その時ここの梅の木を愛でて読んだといわれる歌; 降雪に いろまどわせるうめのはな うぐいすのみや わきて歌はん

 道真公は後配流になり死去と同時にこの梅の木が枯れたとの故事にちなみ、境内に天満神社として鎮座されていたが、大正元年十月二十八日に本社殿に合祀された。 」
鞭崎神社HPより

菅原道真が奉納された仏像は徳川家康が京都の妾に渡したんです。それは 私のブログを見てください。
鞭崎神社と徳川家康との関係


3、源頼朝の村人への問いかけが鞭崎八幡宮への神社名変更のきっかけとなった。  1192年

「 また、檀の浦で平氏を滅ぼした源頼朝は、建久元年(西暦1190年)に初めて上洛し、後鳥羽天皇に謁見、権大納言、右近衛大将に任命されたが、その上洛時に通過したのが当地であった。
 矢橋浦に神社の森があったので、頼朝は村人を召し、馬上より鞭の嵜(さき)を以って指し尋ねたところ、八幡宮であると応答したので、下馬し参拝した。以来、鞭嵜八幡宮と云うようになった。
 頼朝は征夷大将軍となった建久三年(西暦1192年)、いわゆる鎌倉幕府成立とされている年、卜部兼藤に社殿を再興させている。」
鞭崎神社HPより

 今新しい小学校の開発で昔の陣跡がみつかったようです、田んぼの中に。矢橋も鎌倉時代にたくさんの人がいたんですね。 この村人はなんと言う人だったんでほうね、子孫がいてるかも。

4、公武合体で孝明天皇の妹和宮が将軍家茂へ降嫁された際、移動の途中、大神正盈(おおがまさみつ)で休息を
取られる予定であった。    1862年


幕末の一時期、あるべき日本は天皇家と幕府の対立からではなく、両者の融和或いは合体から生まれてくるという考え、公武合体(天皇家と幕府の合体)が推進されたことがある。これを進めるため、孝明天皇の妹君の和宮は14代将軍徳川家茂に降嫁されたが、京都から江戸へ行かれるのは長旅になるので、途中で休み休み行かれる必要があった。言い伝えに撚れは、大神家も休み処の一つとして選ばれたので、正盈は急遽奥座敷を新たに造ったとのことである。
残念ながらどういうわけか、和宮は大神家に寄られることは無かった。奥座敷は今もほぼ当時の姿で健在である。

南草津歴史会は奥座敷に入れていただきました。直すのにお金がかなりかかったみたいです。42代の大神正寿さんが東京からもどってこられたときは、畳も上げれていたそうです。いろんなものも見せていただき、本当にありがとうです。神社見学でめったにないことです。会員のTさんが同じ組ですからやっていただいたんですね。

次回は やっと 膳所城の門が来た理由です。

奥座敷




























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