南草津歴史会で矢橋訪問 矢橋の常夜灯

そば打ちおじさん

2014年09月06日 22:25

石津寺がおわって、お昼です。場所は矢橋の帰帆の港のすぐそこ。矢橋町の帰帆センター(老人クラブの集会所です)


矢橋港跡(矢橋町)
 
 矢橋港は万葉集にも詠まれ、古来、志那・山田とともに湖岸東の港として賑わっていました。近江八景「矢橋の帰帄」で有名で、浮世絵・名所図会にも描かれていました。矢橋の渡船が制度としていつ頃から始まったかは分かりませんが、戦乱期には、湖西、大津、山門比叡山などを結ぶ重要な航路となりました。織田信長が天正6年(1578)安土への水害視察に際し矢橋港を利用し、徳川家康も慶長5年(1600)関ヶ原の戦、慶長19年(1614)大阪冬の陣、元和元年(1615)大阪夏の陣で利用しています。以後、諸大名の蔵米輸送を中心とした物資輸送や旅客の渡し場として発展しました。またその頃、およそ60年周期で「おかげ参り」といわれる集団の伊勢参りが起こり、矢橋港の賑わいは想像を絶するものがあったという記録が残っています。
昭和61年(1986)には遺跡公園として整備され、発掘された三基の石積突堤と、弘化3年(1846)に建てられた石造常夜灯、单北に連なる護岸石垣が残っています。その他、船番所・高札場もあり、人馬の継立つぎたても果たしていました。また、近くにある大銀杏おおいちょう(樹齢約250年)は、湖上からの目印になっていました

出典:「くさつ大好き百科」(一部修正あり)編集:草津大好き百科編集委員会 発行:草津市教育委員会
平成13年11月1日  から引用しました

会員のTさんが かなり勉強されて、矢橋の帰帆の常夜灯の研究をされました。
南草津歴史会での発表です。




弘化3年(1846)に建てられた石造常夜灯です。


大正時代の常夜灯








でも2年前から木は完全に死んでいます。実は常夜灯は個人の持ち物なんです、市役所が買うといっても売りませんでした。


大昔の矢橋の帰帆の絵にこんなのがありました。矢橋の石造常夜灯とは違う港の絵がありました。
Tさんがなんでこんな灯篭があるのだと調べました。いろいろ調べてやっとわかったそうです。
石場の大津署のなかにあったんです。 矢橋の帰帆といいながら大津の石場の絵だったんですね。
残念ながら写真は私の編集ミスでのせられません。 いまから考えたらいろんな風景があたんですね。
Tさん本当にご苦労さんでした。




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