信長の隠れ岩

そば打ちおじさん

2013年06月20日 23:52

 信長は天正4年(1570年)に安土城を建てた人です。でもあの戦国時代にあの安土城をつくって、日本の英雄になりました。でも安土城を作るまではいろんなことがありました。
 
 信長は岐阜を根城にして近江の進出を図るために、妹のお市を浅井長政と結婚させました。これで近江の中部の六角氏に戦争をおこしました。でも六角氏は早々に観音寺城をほって、甲賀へ逃げたんです。足利義詮と同盟を結び、初めて1568年に京都に入場しています。
 
 1570年に伊勢国を平定して、次が越前の一の谷の朝倉義景の討伐に出発したんです。でも敦賀の城のところで、浅井が寝返ったと聞いて、そんなはずは?とびっくりしたんです。浅井と朝倉はお市が来る前から仲が良かったですね。
 
 浅井が応援したことで、両方から責められるから、京都まで退却と決めたようです。信長は少しの人間(10名くらい)で朽木越えをしたそうです。
敦賀で最後まで戦ったのは、秀吉でした。山内一豊は秀吉の部下でした、うまくにげきったんです。

 信長が来ると知った、朽木の領主、朽木元綱は甲冑姿で出迎えようとしたいたんです。信長も先発隊がいてたんかどうかわかりませんが、朽木三つ石の隠れ岩に隠れたそうです。

 でも今になって考えること、山の中にある隠れ岩、どうして知ってたんでしょう。やはり朽木を知っている人がいたんでしょうね。
朽木元綱は足利氏と関係が深かったんです、応仁の乱のとき、都を留守にしてここ朽木に2~3年いたようです。
同行の松長久秀と森可成に元綱の真意を確かめにいったそうです。元綱に敵意がないことが、確認できるまで、隠れ岩にいたらしいです。

朽木元綱は信長を下市場の円満堂でもてなしたあと、朽木城に宿泊して、京都まで警護役も努めたらしいです。

隠れ岩から出られなかったら秀吉の到着をまっていたかもね。秀吉は違う道をとって京都に帰ったそうです。

信長はすぐに姉川の合戦を始めました。 そのあとはTV大河ドラマで存知ですよね。






下の北川のある三つ石です。



ここが 安曇川と北川が合流しているところにある 朽木陣屋 です。



 ここは朽木氏は江戸時代に準大名になっていて、参勤交代まであったようです。

信長が朽木の人にあげたモノです。




でも信長が本能寺の変で死んだですが、遺体がでなかったそうです、私はうまく逃げたんだと思うんですが。





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