紫香楽宮たっぷり探訪ウオークⅡにいきました Ⅱ
昨日は時間無かったので、簡単に書きましたが、昔からいわれていた、紫香楽宮跡はお寺だったのです。名前を甲賀寺とよんでいます。
大正15年に史跡にしていされていて、ここが宮跡とおもわれていました。
わたしも大昔こんな寺みたいところが宮跡かなとおもっていたのです。ここは奈良の東大寺みたいな仏をたてるはずだったのですが、この紫香楽宮も4年でなくなりました。その跡に国分寺を立てたようなお寺なので、今みたいな礎石のある宮跡のかわっているようです。 今回はじめてお聞きしてなるほどとおもいました。
本当の宮跡は雲井学区宮町でおこなわれた田んぼの圃場整備から始まったのです。昭和46年に柱の異物がでてきて、これは天平のころだとわかったものです。ここはいい盆地になっています。
そのあと昭和55年から信楽町で研究がおこなわれました。
昭和58年から発掘があって、いろんなものがでています。この作業は今でも続いています。
奈良から木津にある恭仁京に移りそこからまた紫香楽へ写るよういをしていたのです。そのかん難波宮もありました、でも紫香楽宮も山火事や落雷でまた平城宮にもどったのです。
この場所にあるのが宮町会館です。ここは3年前に天皇さんが遺跡の状況を見にこられたところです。
ここでお昼ごはんでしたが、ここの住人さんがご苦労ねがって、新米のお餅入りの味噌汁をいただきました。
これが遺跡のあとです。
この日に親切に案内していただいた、甲賀郡の教育委員会の歴史文化財の小谷さんどうもありがとうございました。
まだまだのっていないページがありますが、割愛させていただきました。でも本当に勉強できたのと「天平の都と大仏建立」の本が後でみられてよかったです。
歴史文化財の方本当にご苦労さんでした。
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