三井寺の書院散策

そば打ちおじさん

2013年06月10日 23:58

 近江歴史回廊大学でいま東海道をめぐっています。
6月9日は大津の三井寺の散策でした。講義は「大津と大津絵」園城寺の福家俊彦さんでした。講義も面白かったんですが、今日は福家先生の三井寺巡りのお話です。

 私は三井寺の近くでうまれて、長等小、皇子山中 でした。講義の帰りにエレベーターであってそう言いました。
大昔は山にしば取りにいったことがあります。戦争中は三井寺の中に防空壕があったそうです。大昔は映画のロケも来ていました。
今も変わらない駐車場には、大原女の女性がモノを売っていました。

 いい建物の公会堂があって、その建物は堤康次郎さんがかった(ほんまがうそかわかりません)ということで、長等小が経ちました。
小6の時はいろいろ思い出があるんです、子供が多すぎて講堂(体育館ではありません)に入れないといことで、米軍がのこした体育館でありました。

 三井寺と関係ないわとおっしゃいますすが、明治になってから三井寺の北院(いまの歴史民俗館や、市役所、皇子山の陸上競技場は全部)は練兵場にかわってしまい、そのあと米軍がきました。いまは法明院と新羅是神堂しかの残っていません。

 三井寺も比叡山との宗教争いで焼けたし、信長の時もやけたんかな。秀吉は三井寺をつぶしにかかりました。でも北政所が秀吉にうまくいったかどうか、秀吉が死ぬ1日まえに、三井寺復興になったわけです。

仁王門は石部の常楽寺から移築です。三重塔も一切経蔵もよそから持ってきています。やはり徳川家や毛利家はお金もあったし、すごいことをしたんですね。



 







金堂は北政所が作らしたもので、京都や奈良の大仏を作った人の子孫滋賀の人間が作ったそうです、1599年です。








1600年は関が原の戦いです。そのときに、仏さんとは関係のない書院が2つ作られました。



明日は書院も紹介をします。滅多に入れないところです、福家先生にありがとうといいたいです。


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