2014年08月28日
南草津歴史会で矢橋訪問 no3 鞭崎神社
膳所城南大手門が鞭崎神社に移った訳
21日の大神神主さんからもらったパンプレットから抜き出します。
5、鳥羽伏見の戦い / 戊辰戦争の際、膳所藩は新政府軍側で参戦した。
1868年
同じく幕末膳所藩は近江で彦根藩につぐ7万石の大藩であり、京都にも近く交通の要所でもありました。佐幕派と幕府側の両者が、自分たちの陣営に引き入れようとしのぎを削る戦略的地域になっていた。膳所藩は常に譜代大名が治め、幕府とは深い関係があり、本来から云えば佐幕派であった。膳所城の藩主本多康穰(ホンダヤスシゲ)は、佐幕派にとどまるのか、佐幕派に鞍替えすべきか、まよいます。公家だった長谷信篤(後で子爵、京都府知事)が膳所藩の道志たちや、大神正盈(神主)に藩主本多康穰に勤王派になるように説得してほしいと。長谷信篤は本多康穰に自宅に来てもらい、藩主に説得したそうです。
このあと鳥羽伏見の戦いから、勤王派として新政府軍側に立つことになったようです。
6、大神正盈は鳥羽伏見の戦いで敗戦時の逃げ道の手引き役を引き受ける。 1868年
この戦いは薩摩藩と長州藩の連合軍5000名の官軍と幕府軍約15000名はたたかったが、将軍慶喜が勝敗はきまりまえに、江戸にかえってしまい官軍の勝ちでした。
戦いの前に官軍が敗れることをかんがえて、新政府軍は天皇の御神輿は比叡山にもっていて、天皇はのらずに、大文字を越えて、奈良に逃そうとかんがえていたんです。その道案内の手引き役は大神正盈にまかされました。
でも勝ち戦で不用でした。
7、膳所藩主本多康穰は、廃藩置県の際 膳所城南大手門を鞭崎八幡宮に寄進した。 1871年
取り壊される運命の膳所城南大手門の受け皿になることを望んでいた、大神正盈の要望が叶ったのには、膳所藩と
当八幡宮の長い繋がりだけではなく、藩主と大神正盈との間に芽生えた深い信頼関係も役にたったのではないかとおもいます。
私の意見 わさわさ琵琶湖をわたって膳所から矢橋までは遠いです、私は草津は米どころで関係があってもらったとおもってました。幕末から大神正盈さんの努力で門が来たんですね、すごい方です。今は重要文化財です、矢橋町の方がみんなで守っています。
次回は瀬田の建部大社のお話です。

21日の大神神主さんからもらったパンプレットから抜き出します。
5、鳥羽伏見の戦い / 戊辰戦争の際、膳所藩は新政府軍側で参戦した。
1868年
同じく幕末膳所藩は近江で彦根藩につぐ7万石の大藩であり、京都にも近く交通の要所でもありました。佐幕派と幕府側の両者が、自分たちの陣営に引き入れようとしのぎを削る戦略的地域になっていた。膳所藩は常に譜代大名が治め、幕府とは深い関係があり、本来から云えば佐幕派であった。膳所城の藩主本多康穰(ホンダヤスシゲ)は、佐幕派にとどまるのか、佐幕派に鞍替えすべきか、まよいます。公家だった長谷信篤(後で子爵、京都府知事)が膳所藩の道志たちや、大神正盈(神主)に藩主本多康穰に勤王派になるように説得してほしいと。長谷信篤は本多康穰に自宅に来てもらい、藩主に説得したそうです。
このあと鳥羽伏見の戦いから、勤王派として新政府軍側に立つことになったようです。
6、大神正盈は鳥羽伏見の戦いで敗戦時の逃げ道の手引き役を引き受ける。 1868年
この戦いは薩摩藩と長州藩の連合軍5000名の官軍と幕府軍約15000名はたたかったが、将軍慶喜が勝敗はきまりまえに、江戸にかえってしまい官軍の勝ちでした。
戦いの前に官軍が敗れることをかんがえて、新政府軍は天皇の御神輿は比叡山にもっていて、天皇はのらずに、大文字を越えて、奈良に逃そうとかんがえていたんです。その道案内の手引き役は大神正盈にまかされました。
でも勝ち戦で不用でした。
7、膳所藩主本多康穰は、廃藩置県の際 膳所城南大手門を鞭崎八幡宮に寄進した。 1871年
取り壊される運命の膳所城南大手門の受け皿になることを望んでいた、大神正盈の要望が叶ったのには、膳所藩と
当八幡宮の長い繋がりだけではなく、藩主と大神正盈との間に芽生えた深い信頼関係も役にたったのではないかとおもいます。
私の意見 わさわさ琵琶湖をわたって膳所から矢橋までは遠いです、私は草津は米どころで関係があってもらったとおもってました。幕末から大神正盈さんの努力で門が来たんですね、すごい方です。今は重要文化財です、矢橋町の方がみんなで守っています。
次回は瀬田の建部大社のお話です。
Posted by そば打ちおじさん at 23:33│Comments(8)
│南草津歴史街道
この記事へのコメント
膳所城南大手門が鞭崎神社に移った経緯がよくわかりました。
>取り壊される運命の膳所城南大手門の受け皿になることを望んでいた、大神正盈の要望が叶ったのには、膳所藩と
当八幡宮の長い繋がりだけではなく、藩主と大神正盈との間に芽生えた深い信頼関係も役にたったのではないかとおもいます。
門が移築されたのは、大神正盈さんの尽力があってでのことだったのですね。
お城の門の変遷を遡ると歴史が見えてきますね。
>取り壊される運命の膳所城南大手門の受け皿になることを望んでいた、大神正盈の要望が叶ったのには、膳所藩と
当八幡宮の長い繋がりだけではなく、藩主と大神正盈との間に芽生えた深い信頼関係も役にたったのではないかとおもいます。
門が移築されたのは、大神正盈さんの尽力があってでのことだったのですね。
お城の門の変遷を遡ると歴史が見えてきますね。
Posted by しずか at 2014年08月29日 10:32
歴史で官軍が勝ったことを知っていると、官軍が「敗戦時」のことまで考えていたというのはちょっと驚きですね。
軍事力も兵器も官軍の方が優れていたようですし、圧勝しか考えてなかったのかと思っていました。
逆にいえば、当時の人たちには勝敗が読めないような状況だったということでしょうか。
鞭崎八幡宮は行ったことありませんが、こちらに寄進された膳所城の門も立派ですね!
軍事力も兵器も官軍の方が優れていたようですし、圧勝しか考えてなかったのかと思っていました。
逆にいえば、当時の人たちには勝敗が読めないような状況だったということでしょうか。
鞭崎八幡宮は行ったことありませんが、こちらに寄進された膳所城の門も立派ですね!
Posted by 藤南一乃 at 2014年08月29日 19:28
>しずかさんへ
わたしもこんな情勢で移ってきたとは、ほんとびっくいですね。神主さんの文章からひらいました。
わたしもこんな情勢で移ってきたとは、ほんとびっくいですね。神主さんの文章からひらいました。
Posted by そば打ちおじさん
at 2014年08月30日 02:40

>藤南一乃さんへ
官軍はやはり少ない数で応戦したから、負けること考えていたんですね。
鞭崎八幡宮は古い神社ですが、江戸時代に上賀茂神社をこわしたときに、材料をもらって建てたんです。ですから文化財にはなってません。膳所城の門が重要文化財です。南草津は人口がどんどん増えてますが、このお宮さんは静かですわ。
官軍はやはり少ない数で応戦したから、負けること考えていたんですね。
鞭崎八幡宮は古い神社ですが、江戸時代に上賀茂神社をこわしたときに、材料をもらって建てたんです。ですから文化財にはなってません。膳所城の門が重要文化財です。南草津は人口がどんどん増えてますが、このお宮さんは静かですわ。
Posted by そば打ちおじさん
at 2014年08月30日 02:45

>鳥羽伏見の戦いから、勤王派として新政府軍側に立つことになった
膳所藩の「本田氏」といえば、徳川家康の四天王「本田忠勝」の子孫ですよね。
そんな徳川幕府の中枢にいる藩でも、幕府を見限ったのですね。
会津藩と新選組が気の毒・・(笑)
膳所藩の「本田氏」といえば、徳川家康の四天王「本田忠勝」の子孫ですよね。
そんな徳川幕府の中枢にいる藩でも、幕府を見限ったのですね。
会津藩と新選組が気の毒・・(笑)
Posted by めりい at 2014年08月30日 22:00
>めりいさんへ
本多家です。私も膳所藩がこんなになっているとは、でも戦争には参加していないんですよね。
本多家です。私も膳所藩がこんなになっているとは、でも戦争には参加していないんですよね。
Posted by そば打ちおじさん
at 2014年08月31日 08:11

どうもです。
知りませんでした「膳所城の門」が
そこに有るとは・・
以前「膳所ウォーク」というので散策した時はそのような
事はいうておられませんでしたので!デス。
本多さんさぞかし苦労されたのでしょうね・・
知りませんでした「膳所城の門」が
そこに有るとは・・
以前「膳所ウォーク」というので散策した時はそのような
事はいうておられませんでしたので!デス。
本多さんさぞかし苦労されたのでしょうね・・
Posted by 哲郎
at 2014年09月01日 20:54

>哲郎さんへ
矢橋の鞭崎八幡宮のあります。膳所にあるほかの神社もすべて重要文化財です。でも鞭崎八幡宮が一番きれいにのこっています。
膳所城の本多さんも佐幕派と幕府側で苦労されたんですね、でも本多さんは明治になって
東京でくらしていて、子孫もいるみたいですよ。
矢橋の鞭崎八幡宮のあります。膳所にあるほかの神社もすべて重要文化財です。でも鞭崎八幡宮が一番きれいにのこっています。
膳所城の本多さんも佐幕派と幕府側で苦労されたんですね、でも本多さんは明治になって
東京でくらしていて、子孫もいるみたいですよ。
Posted by そば打ちおじさん
at 2014年09月02日 00:45
